どうして私が東京大学を中退したのか反省する会

東京大学を中退した人が何が原因なのか考えて悔いて反省して笑い飛ばす

ゲームは諸悪の根源か

はじめに

このたび、晴れて東京大学を中退することになった。何故中退することになったのか、病気・事故・貧困といった特段の事情はない。なんてことはない、ごく普通の一般的な大学生であった私は他の大学生たちと同じような、平凡な日常を送っていた。つまり、私の中退は「普通に単位が足りなかっただけ」で片付けていいような、ささいな問題だろう。しかし、そんな一言で終わらせてしまうのも面白みに欠ける。もう少し原因を掘り下げてみてもいいのではないか?私にとっての普通も他の人からすれば異常だったりするのではないか?よくよく考えると周りの同期は何事も無く卒業しているのだから、「何事もなかったのに中退した」というのはおかしい。自分の大学生活に何があったのか、一度しっかり整理したいということで、このような形で文章にまとめてみようと思った。

これは私が大学でしでかしたこと、やらかしたことを逐一振り返った反省会である。それを読んで「くだらねーことで中退したのだなあ」と笑われていいし、「同じ轍を踏まないようにしよう」と反面教師にされるのもいい。あまり真剣に後悔するのではなく、酒の席で愚痴って肴にするくらいのテンションで行こう。

暇さえあればゲーム

私を知る人からは「ゲームのせいで中退したんじゃないの?」と言われることがよくある。実際、周りに数多く生息している留年生たちはゲーム漬けの生活を送っていたし、私も標準的な日本人よりはゲームをやっている人種だった。ゲームをはじめとした娯楽のせいで留年・中退する。なんとももっともらしい理由ではないか。つまり、なまけものから娯楽を取り上げれば、心を入れ替えて真面目に勉強。余裕の卒業からの「めでたしめでたし」。全ての問題が解決してハッピーエンド! 素晴らしい! とにかく、ゲームさえなくなれば大学へ行くようになる。そう考えて、ゲームから離れていた時期があった。

ゲームを断てば

結論から言おう、これは全くの無意味で時間の無駄だった。「一切の娯楽を断てばどうなるか?」の答えは「何もしなくなる」だった。ゲームはやらない、かといって大学へも行かない。やることが何もない。何もないから寝ることしかできない。たまにネットの世界を一瞥することでギリギリ現世とのつながりを保てていた。それ以外はずっと布団の中。眠りすぎて、露ほども眠気を感じないのでぼーっとしている時間の方が長かったかもしれない。今でも当時のことが思い出せない。そこだけ記憶が抜け落ちているような、本当に何もない虚無がそこにはあった。やるべきことはあるのに、できることは日に日に失われていく。その焦燥感、罪悪感だけが募っていく。だが、それは辛くもないし、苦しくもなかった。それが当たり前で自然だから、ただありのままを受け入れるだけだった。こうなってしまうと、もはやゲームもできなくなる。やる気がでない。ロウソクの灯火を消されてしまったかのように。

やることがないのだから大学へ行けばよかったのだが、そもそも大学へ行くという発想が思い浮かばなかった。それ以前に、発想をするという行為そのものが困難になっていた。ゲームをやる気力すら失われてしまったのに大学へ行くだけの気力を確保することが可能なのだろうか?

補足:これは「気力を出すぞ!」と決意するだけで「はい、気力が出た!」とならなかった私のせいかもしれない。無から気力を出すという行為は、燃料無しで車を走らせるくらい簡単なことなので、誰もができて当たり前のはずなのだ。

暇だったからこそのゲーム

「ゲームをやめれば大学へ行くようになる」が嘘で、それどころか状況が悪化するということはよくわかった。因果関係としては、「ゲームをしたい→時間がなくなる→大学へ行かなくなる」ではなく、「大学へ行かなくなる→時間があまる→ゲームくらいしかやることがない」が正解だったのではないか?ゲームをやることよりも、大学へ行く方がハードルが高いに決まっている。ゲームもできないような奴が大学へ行けるわけがない。それにも関わらず、ゲームさえやめれば万事解決とは少し短絡的すぎた。ゲームをやっていることが問題なのではなく、大学へ行けないことが問題なのだということを完全に見落としていた点については反省。奪うのではなく与える。大学へ行く理由・きっかけを作りに行く方向で動く方が効果がありそうである。


そして、ゲームを失ってみて分かった。ゲームのおかげで最低限の気力を維持できていたのだ。「やることがない」というのがこんなにも辛い(しかも辛いことを自覚することすらできない)ことだとは想像もできなかった。大学から目をそらしてゲームに責任転嫁をしていたことについては、ゲームに対して本当に申し訳ないと思っている。ゲームに罪はなかった。それどころか、大学へ行くことができなくなった自分に生きる理由を与えてくれた、感謝するべき存在だった。

 やはり、大学へ行けないことの原因は大学に求めるのが筋であろう。というわけで、次からは何故大学へ行くのが嫌で嫌で仕方なかったのかを考えたい。