どうして私が東京大学を中退したのか反省する会

東京大学を中退した人が何が原因なのか考えて悔いて反省して笑い飛ばす

人は90分で壊れ、105分で死に至る

学生たちのためを思ってできたであろう105分

確かあれは私が4年生、いや、3年生? まあ、とにかく、工学部へ進学してからの出来事である。今まで1コマあたり90分だった授業時間が105分へ延長されたのである。何故そうなったかについてはどうでもいいので忘れたが、私の周りの学生たちの誰もが文句を言っていたことは覚えている。先生たちも「ちょっと105分は長くない?」という雰囲気を出している人もいたし、誰が得をしているのかよくわからない制度だった。少なくとも私にとってしてみれば、大学を中退するハメになった原因の1つなのではと疑っているので、損しかしていなさそうだ。

シベリアで木の本数を数えるだけの簡単なお仕事

105分以前に、90分という時間ですら私にとっては十分に長かった。授業中にやることといえば、黒板の内容を書き写すことと、先生の発言を簡単にメモしておくことだろう。これがもう、ただただつまらないのである。先生の話を聞きながら、ちょっと分からないところがあったとして、「これはどういうことなのだろう」とか「確か前のページに関連してたところがあったような」とか、少しでも考え事をしてしまったらアウト。先生は既に次の話題へ進んでしまっているせいで、ついさっきまでの内容を聞き落としてしまう。黒板の内容も更新されているが、断片的な情報しか書かれておらず、何のことか推測不可能ということがよくある。

授業の中で要求されていること、それは心を無にして黒板・先生の話・配布物から適切に情報を抽出し、教科書の劣化版を自作することではないか。授業の内容を理解する作業を授業中にやるということは悪手なのではないか。結局、実行に移すことはなかったものの、「授業中にひたすら教科書を読み込んだ方が効率がいいのでは?」と何度考えたことか。

さて、授業をどうやって受けるべきだったかの反省は、まだまだ語れそうだが、本題からかなりズレてきたのでまたの機会ということにしよう。ここでは「授業中の作業感は苦行だったよね」ということが伝われば、と。こうして考えてみると、90分が105分になったことではなく、そもそも授業がつまらないということの方が駄目だったのではないかという気もする。

苦痛から逃げるということ

単純作業が苦痛で苦痛でたまらない人間だったので、授業に出るのが嫌で嫌で仕方なかった。「早く終わってほしい。あと何分で終わるのか」と、何度も時計を見るのだが、たいして時間が進んでいなくて、まるで時が止まってしまったかのような錯覚に陥った。あまりにも辛くなった時はトイレへ行くことを口実に廊下をうろうろして気分を晴らしたこともあった。我慢することで手一杯で授業の内容を理解するどころではなく、当然成績は落ちていくばかりだった。当時は「みんなも必死に我慢しているのだから自分も我慢しなければ」と思っていたが、これが大きな間違いだったのかもしれない。

おそらく、この勉強方法は間違っている。ストレスに心を折られかけてしまった結果、真面目に授業を受けることをやめてしまった。しかし、出席点もあるし、何よりも「努力しました感」が出るので授業には出るようにしていた。スマホをいじる、ゲームをする、寝る、などなど、とにかく不真面目になることで90分という時間をしのごうとした。虫のいい話だが、こうでもしないと精神が壊れてしまうのではないかという、ある種の自衛手段のつもりだった。

これでもなお、人の形を保つのは難しかった。授業中に、どんなに画期的な暇つぶしをやっていたとしても、常に罪悪感に晒されるという、新たなる試練が待ち構えていた。常に見張られているような感覚、いつ先生に怒られてもおかしくない恐怖、周りの学生からも白い目で見られているのではという疑念。ゲームを楽しむどころではなく、眠りも浅く、妙な緊張感を耐えなければいけない。

かつては楽しかったことも、授業中に不快感を覚えてしまうと、授業が終わってからも不快感が持続するようになった。外で遊ぶ時も、家で寝る時も、授業中と同じような緊張感が走り、楽しさが半減した。「自分が今楽しんでいることは悪いことで、罪悪感を感じなければいけない」という癖がついたのではないか。

結局、真面目な人間にも、不真面目な人間にもなりきれなかった自分には、休学という形で逃げるしかなかった。逃げなければ心が壊れてしまう、そう判断した。
(まあ、休学した理由はこれだけではなかったのだが)

ハードモードでコンティニュー

そして、休学から戻ってきた私を待ち受けていたのが105分授業だった。90分でもかなりギリギリだったのに、更に15分も授業が延長されていて、果たして耐えることができるのだろうか?火を見るよりも明らかだが、答えはNOだ。我慢できないのはやる気がないからだ、などという精神論で乗り切ろうとしたのも間違いだった気もするが、無為無策に等しい状態で、前回と同じ過ちを回避するなどできるわけがない。結局、授業が90分だった時代と同じことが起きて、+15分だけ多くのダメージを受けるだけだった。この15分の差にどれだけ意味があるのか、90分も105分も大差がないのではないか、と解釈することもできるが、「授業時間が105分になったことによるメリットはなかった」ということは断言していい。

元気だった頃は「講義室にガソリンを撒いて火でもつけてやろうか」くらいの余裕はあったものの、段々と先進を削がれていって、最終的には「大学関係者を皆殺しにするよりも自分1人を殺す方が楽」という結論に至った。そしてある日、授業を抜け出して建物の最上階へ行き、「授業中に死者が出たら偉い人の面子が潰れて楽しいのでは?」と105分ほど長考するようになったあたりで、このままでは危ないと気付き、授業に出ることをやめた。